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【雑記】研究は何のためのものなのか

強制わいせつ未遂の疑い、東京大学大学院生を逮捕

以前にもここに書き散らしたことと同じ内容の文言を繰り返してしまって恐縮なのだが、こういう屑は古代中国式の宮刑に処せられるべきである。当時のやり方に則って執行されると死ぬ確率が高いので、司法関係者には当時の当地で行われていたと言われている宮刑の導入を是非ともおすすめする。

それはともかく、しがないとは言え、わたしもいちおうは研究者のはしくれでもあるので、そうした観点からこの事件についての感想を手短に述べておくと、「堅苦しい研究から逃げる」ことなんか、簡単の極みである——という一言に尽きる。「堅苦しくない研究」をするか、あるいは研究そのものから逃げたいのだったら大学院生の身分を即刻放棄して就職活動や起業でもすれば良かったはずだ。哲学や美学や倫理学などの思想や、文学や美術や音楽や演劇などの芸術といった、人文学の中でも最右翼、あるいは友人が戯れに思い付いた「人文系極右」という言葉ででも形容せざるを得ない、「穀潰し」、「役立たず」、「ダメ人間」あるいは「社会不適合者」の烙印を即座に押されてしまうような分野の専門家でもないのだから、専門の知識を生かして民間のシンクタンクなどで働いていた経験を大々的にアピールすれば、知識集約型産業に潜り込んで十分に食っていけたことだろうに。

だが、わたしにとっては、彼が取るべきであった進路についての話など、正直どうでも良い。勝手にしやがれの一言だ。こちらにとって聞き捨てならなかったのはむしろ、一連の性犯罪に走った経緯に関する彼の言葉である。「スリルや背徳感を求め」るために性犯罪に走ることでしか「堅苦しい研究から逃げる」ことができなかったという言葉が、本当に彼の口から発せられていたとしよう。そうすると、この彼は自分が取り組んできた研究や研究対象を心底好きであったことはおろか、研究対象に対して敬意を表することさえもなかったのかもしれない——ということが考えられてしまう。換言すると、長年携わっていた研究が、単に自分の身の栄達、あるいは自己保身のためにしかなされなかったのかもしれないのだ。そう考えると、ある意味ではこの御仁もまた実に哀れな存在なのかもしれない。自分の中から湧いてきた、止むに止まれぬ興味や関心の赴くままに「研究」などという大変にストレスが溜まる作業に勤しんでいたのではないということなのだから…

のぶおくんは今日も安定運行

マスコミを極左化させる「文学部バイアス」

文学部出身者のみなさん、のぶおくんによれば文学部出身者には独特なバイアスがかかっているらしいですよー! お互い気を付けましょう!

それはともかく、たったこれだけの短い文章の中で、のぶおくんが考える「極左」と「左翼」との違いが何なのかまったく分からないという、実に滑稽なことになってしまっている。「極左化した」ワイドショーのコメンテーターが奉じているのは「昔の極左暴力主義」ではないと言ったのちに、「社会党の「非武装中立」のような日本独特のガラパゴス平和主義」と定義し直している。ここからは、この種の平和主義こそがのぶおくんにとっての「極左化」の背景にある「極左」という概念が意味する内容なのであろうことが推測される。だが、基本的に「極左」とされる政治団体や活動家は、マルクスの思想やそこから派生した思想、あるいはアナキズムの思想を奉じるとともに、自らの政治的な理念を実現させるためならばテロリズムなどの非合法の暴力行為に訴えてでも現在の政府を転覆させることをも良しとしているものではなかったのか。ところが、彼が「極左」呼ばわりしようとしている(らしい)「「非武装中立」のような日本独自のガラパゴス平和主義」なるものを文字通り解釈すれば、こうした考えを奉じている人や団体は、自身の目的を遂行するために国家に対して非合法の暴力行為をふるうことを良しとはしないはずだ。むしろ本物の「極左」から見れば、こうした考えを奉じる者たちはぬるま湯につかった「右翼の日和見主義者」でしかなかろう。のぶおくんが考えているであろう「極左」と「極左」という言葉に関する一般的な意味合いとをこんな感じでちょっと比べてみただけでも、矛盾だらけであることが露呈してしまう。

とまあ、のぶおくんのこの文章での物言いのおかしさを理解するには、別に安全保障やマスコミ研究、あるいは政治思想史の専門家である必要などまったくない。それこそではないが言葉の真の意味での事物についての「批判的」な認識を基盤とする、文学部で行われているさまざまな学問の方法論に関する知識と実践の経験——友人が戯れに思い付いた「文学部パワー」という言葉を借用しても良かろう——さえあれば、鼻クソをほじったりビールを飲んだりしながらでもすぐに分かってしまうし、今ご覧になっているような駄文もいとも簡単に書けてしまうのだ。だ…

Vydal monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád!

Boris Blahak, Franz Kafkas Literatursprache Deutsch im Kontext des Prager Multilingualismus

Jsem velice šťastný tím, že jsem si uvědomil toho, že vydal svou monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád Boris, jenž učil němčinu na pedagogické fakultě Masarykovy univerzity v Brně během mého studijního pobytu v 2001-3 a je ke mně od té doby stále nesmírně laskavý. Nikdy nezapomenu, jak mě uklidňoval, kdykoliv bylo mi smutno tím, že na ulicích mne uráželi jen proto, že jsem "žlutá opice" z Asie. Rád bych si proto koupil exemplář jeho knihy, ačkoliv jsem velmi špatný čtenář německých textů vůbec! Dejte mi vypít, abych ho oslavil!


『アステイオン』86号にミラン・クンデラの対談記事の拙訳を掲載していただけました

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すでに二月近く経ってしまいましたが、宣伝です。(我ながら、宣伝下手です……。)



ミラン・クンデラとチェコ放送で文芸番組のディレクターを務めていらしたトマーシュ・セドラーチェクさん(経済学者のトマーシュ・セドラーチェクさんとは、まったくの別人です)との対談記事「にわかに信じ難い運命」をわたしがチェコ語から日本語へ訳したものを、『アステイオン』86号に掲載していただきました。昨今の出版事情に鑑みると、単行本への収録ということは絶望的でしょうから、クンデラの小説や現代文学がお好きな方には、今回の『アステイオン』を購入されることを強く、強くおすすめ致します。政治学者の池内恵さんも書かれているように、今回の『アステイオン』は採算度外視の実に濃い号に仕上がっています。是非とも買ってください。これだけでも1000円を出すのに十分過ぎる価値があります。

件の対談記事は、ブルノにあるアトランティス社が2004年に刊行した『私のヤナーチェク』という本のトリを飾るものとして出版されたものです。実は、この本がチェコで刊行された直後に入手して対談記事の全訳を作成し、いろいろな出版社に持ち込んでもたものの、なかなか色良い返事がいただけずにそのままにしてしまっておりました。紆余曲折の末に『アステイオン』に掲載していただけて、本当に良かったです(紆余曲折の具体的な内容については、いろいろと差し障りのある話が多いので、公の場では今後とも一切触れないつもりです)。

『アステイオン』の惹句にも記したことではありますが、この対談の内容は大まかには『裏切られた遺言』での議論をチェコ共和国在住の一般の聴取者向けに分かりやすく要約したものだとも言えます。とは言え、それだけの意義にはとどまりません。『裏切られた遺言』においてかつて開陳していたマックス・ブロートに対する厳しい(あるいは、苛烈と言っても過言ではない)評価をよりポジティヴなものに改めています。クンデラがブロートの評価を転換していたことは、少なくとも日本語圏の読書界ではまだあまり知られていないことかと思います(この点についてだけでも、日本語に翻訳し、紹介する意義があったと考えております)。さらに言うと、クンデラは、ヤナーチェクについて語ることを通して、政治的、経済的、文化的な観点から「マイナー」あるいは「周縁」という扱いを「メインストリーム」に属して…

『気まぐれの夏』の読みで悶絶なう

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目下、いろいろな仕事の合間を縫って、ヴラジスラフ・ヴァンチュラ大先生の『気まぐれの夏』の読解をちびりちびりと進めているところなのですが、この小説の語り口について一言だけ印象を申し上げておきますと、あの小説の大半は登場人物の会話をそのまま引用した直接話法で出来ていて、語り手は登場人物の会話のつなぎを行ったりしつつ、そこへ寸鉄人を刺すという感じの註釈を入れたりしています(註釈の入れ方が、やはり前近代の小説や日本で言えば『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話を読んでいるような感じがして、妙に面白かったりします)。しかも、語り手が登場人物の会話を引用する際には、引用符が用いられることがありません(現地で普及している版では、読みやすさを配慮してか、引用符が付けられています。ですが、学問的な校訂がなされた全集版では、引用符がすべて取り払われています)。そのためでしょうか、登場人物が話している部分と語り手が語っている部分とが融合された感じの字面になっています。

登場人物の言葉に注目してみると、人物ごとに言葉の性格が異なっているものの、どの人物も日常の会話ではあり得ないような豪華絢爛たる饒舌——1920年代に書かれたものとは到底思えないものすごく古めかしい語彙や形態論や統語法のコンボと卑俗極まりない表現、そしてどうやらギリシアやローマの古典や聖書や近代ヨーロッパのさまざまな文学作品などを踏まえた感じがする物言いとの楽しい(そして、それゆえに読解を進めてゆくのにものすごく難儀する)アマルガムとでも形容するしかない代物——を延々と繰り広げてゆきます。内容を要約すると本当にしょーもない話の連続なので、「真面目」な内容を持った話を好まれる方だと真っ先に腹を立てられることかと思います。ですが、そうした「しょーもない」内容だからこそ、登場人物があるモティーフに基いた観念連合を過剰なまでに派手派手しい言葉でこれでもかこれでもかと言わんばかりのノリで紡ぎ出してゆくさまのおかしみがいやが応にも伝わってきます。その様子は、テーマが下らなければ下らないほど筆や体がノリノリになってゆく作曲家や即興演奏の大家をどこか彷彿とさせます。

そんなわけで、原文を読んでいると(あるいは、解読してみると)、まるで高座に上がった落語家や浪曲師がさまざまな声色を駆使して登場人物の会話を再現しているかのような感じがし…

glibcライブラリがないと言われてSlackwareが起動しなくなった!

読んで字の如しという話なのだが、先日サブマシンのThinkPad X61にインストールしている Slackware64 current(早い話が、人柱御用達ヴァージョン)のソフトウェア一式をアップグレードさせて再起動させたところ、

GLIBC_2.25

云々と書かれたメッセージが大量に表示されて起動できなくなってしまった。要するに、glibc の共有ライブラリのバージョン 2.25 に依存している大量のアプリケーションやライブラリを起動させることができなくなって、OS 自体を起動させることができなくなってしまった、ということである。

このトラブルの原因は、明らかだ。昔からずっと愛用している Alien Bob 氏による multilib パッケージや独自ビルドが slackpkg コマンドによって自動的に slackware 公式のビルドに置き換えられないようにしようと、/etc/slackpkg/blacklist ファイルにおいて

[0-9]+alien

という設定を書き込んでいるためだった。

原因がすぐに分かったとは言え、起動させられなかったらてんでお話にもならない。だが、ここで再インストールなどしてはいけない! 早まってはならぬ。Ubuntu や Debian ならいざ知らず、相手は Slackware だ。インストール作業それ自体はほんの2時間ぐらいで終わるし、下手をすると Windows のインストールよりもはるかに簡単に済むことであろうが、自分好みの環境を復旧させるのに軽く1週間はかかってしまう。いろいろと書き仕事の案件を抱えている身にとっては、時間と労力の無駄以外の何者でもない。こういう時にこそ、インストール時に使われたであろう OS のインストールディスクを使おう。Windows のインストールディスクと同様に、Slackware のインストールディスクもレスキュー用途でフルに使うことができるのだ。だからこそ、こうした状況に陥ってしまっても、まずはコーヒーや茶などを飲んで気持ちを落ち付けてから、インストールディスクと空き容量が十分にある適当な USB メモリを探し出そう。

復旧させる方法についてだが、大まかには Re-installing lilo from a Slackware boot CD に記されている手順をほぼそのまま踏めば良い。ただし、注意…

クラウドファンディングのご案内: 「知られざるシマノフスキの魅力を日本で」

知られざるシマノフスキの魅力を日本で。デュオ・リサイタル開催

なんとまあ! 東京藝大でさえもクラウドファンディングをしなければ資金繰りができないとは、いったいどういうことなのだ……。こう思わずにはおれなかったのですが、お財布に余裕のある方はどうかこのプロジェクトをサポートしてください(すでに目標金額に到達しているとのことですが、この種のイヴェントを健全な形で開催するには、やはり1円でも多くのお金が必要となります)。お財布の紐が固くてどうしようもないという方は、どうか代わりに情報を拡散してください。

シマノフスキの音楽は、豪華絢爛で洗練の極みにあると同時に、つねに表現が過剰で鈍重で土臭くもあるところが魅力的だといつも感じております。とりわけ、ポーランド南部の民俗音楽に着想を得て書かれた晩年の作品群には、シマノフスキ以外の人間には到底作り上げられなかったであろう独特な音世界があります。『スターバト・マーテル』やピアノのための一連のマズルカなどが、その端的な例として挙げられます。未聴の方は、これを機会にどうか YouTube などでお聴きください。両大戦間の中央ヨーロッパやロシアで作られた芸術音楽にご関心がある方でしたら、きっと楽しめることと思います。

ドイツよりも東の地域で作られた芸術音楽を積極的に広めることは、独墺・仏・伊以外の地域を出自とする音楽作品をとかく「イロモノ」扱いしがちである、この国の西洋芸術音楽愛好家ならびに専門家の視点を少しでも広く、そして少しでも柔軟なものにすることにもつながってゆくものと信じております。ですから、わたしもきわめて微力ではありますが、このプロジェクトに貢献しようと思います。